聖宝(しょうぼう)832〜909『理源大師』
平安時代、天智天皇の子孫として生まれる。俗名は恒陰王。16歳のとき、弘法大師空海の弟・真雅上人のもとで出家し、基本的な修行を終えた聖宝尊師は、当時の多くの僧と同じように南都の仏教を学習する。そのはじめとなったのが三論宗で、のち法相宗、華厳宗なども修めていく。聖宝尊師の伝記『醍醐根本僧正略伝』には豪胆で権威を嫌う気概を持った人であり、鬼人が棲むと恐れられていた東大寺の僧坊にのりこんでこれを退治したエピソードが語られている。
このような考え方が師真雅との間に溝を作ることになったらしい。当時、真雅上人は中央権力に接近し朝廷や貴族の間でも着々と地位を確立し、真言宗を隆盛させていった。が聖宝尊師はそうした真雅上人の活動に対して否定的であった。聖宝尊師は権力を避けるように大和の吉野での山岳修行をはじめ四国遍歴を続けた。このころ、聖宝尊師は真雅上人が開いた貞観寺で修行をしていたが、笠取山(醍醐山)の山頂に草庵を構え、
准胝観音・如意輪観音の加持を行って本尊とお堂の建立を始める。これが真言宗醍醐派総本山醍醐寺の始まりである。
こうした中、聖宝尊師は醍醐寺を活動拠点とし、真言宗の僧侶としてその地位を確実に高めてゆく。弘法大師空海の甥、真然上人より両部の大法を受け4年後に伝法灌頂を受け阿闇梨(あじゃり)位にのぼった。また聖宝尊師は醍醐寺を中心とした活動の一方で、山岳修行の確立にも力をいれる。吉野金峯山にお堂を建て、如意輪観音、毘沙門天、金剛蔵王菩薩の像を造って安置したとされる。南都での修行以来、山岳修行に傾倒していた聖宝尊師は、真言密教と結びつける事で、山岳修行に新たな形と意味を作ることとなったのである。大峯山に大蛇が棲みついた大蛇を退治し、大峯山を復興したのも聖宝といわれる。山岳宗教である修験道には当山派(真言宗系)と本山派(天台宗系)があり、山岳修行に重きを置いた聖宝尊師が当山派修験道の派祖とされるようになる。
聖宝尊師は60歳前後になって真言宗の指導的役割を果たすようになる。890年には真雅上人入滅後10年以上空席だった貞観寺の座主に任ぜられる。また、弘法大師空海上人や真雅上人も勤めた弘福寺の検校にも任ぜられ、895年には東寺長者のひとりとなり翌年には東寺の別当を兼務することになった。東寺は高野山とならぶ真言宗の中心であり、聖宝尊師は真言教団の中心的役割を果たす存在となっていった。他方、三論宗の僧としても重んぜられ東大寺の東南院院主となり、三論教学の中心とした。
909年、聖宝は朝廷の後七日御修法をつとめるが、これが朝廷での最後のつとめとなり78歳になった聖宝の健康は悪化し、この年の7月6日入滅する。
1707年理源大師の称号を東山帝より授かる。 |